2005北海道〜東北 5

朝9時ごろ八戸に着いた。
例によって バイクは最後の最後じゃないと 降りることができない。我々のバイクが収納してあるフロアの床がパカっと開いてタラップみたいに下へつながった。
自動車やトラックはどんどんと出てゆく。
まるでサンダーバード2号みたい(古いたとえでごめんなさい)
みんな出て行って やっとバイクの下船の順番が回ってきた。レブルの彼女が先頭だったが 彼女初心者のようだ。
出るのに戸惑っていたので 勇気が出るように こう教えてあげた。
「なにも無理して 狭いところから走り出すことはない、広い場所までバイクを押して行けばいいんだよ そこから走り出せばいい」 「広い場所まで出たら 先に出たいやつに道を譲ればいい ゆっくりバイクの機嫌を確かめながら 最後に走り出してもかまわないんだよ」

彼女は不安が和らいだのか 少し口元を緩めて小さくうなづいた。
私は彼女のバイクが 広い場所に出るまでうしろを押して そのあと自分のバイクに戻って エンジンをかけた。

船の外へ出て レブルの彼女と タコジャーキー1号2号君と 挨拶を交わして 互いの無事を祈った。レブルの彼女は実家の盛岡へ タコジャーキー君達は 五所掛温泉に行くという。

またどこかで あいましょう!

やっぱり地上はいい!ふわふわした船上は私の性にあわない。

まず 青森県の東の端っこから 青森市へ向かうことにする。
八戸の向こうに五戸があって 隣には六戸もあって 三戸 二戸・・・うーむ地名だけ聞いてたら 多分道に迷うなぁ。十和田市の手前で右に曲がり 七戸方面へ

六戸町の辺りの国道で バイク屋に立ち寄る。
旅に出てから 毎日のようにチェーンが伸びて かなり心配だ。
まだ 余裕はあるのだが この分だと帰るまでに限界を迎えそうだ。
予想だと お盆休みあたりにダメになりそうで 下手すると立ち往生しかねない。

出発前には まだまだ余裕があって まさかこんなに早く寿命がこようとは 思ってもみなかった。なんせ 前回のチェーン交換はわずか3ヶ月前なのだ。
積載荷物があまりにも重いのか 一日の走行距離が多いのか・・・
立ち寄った店は 旧車専門店のようなので 期待したが 留守番のばぁちゃんだけで
店主はいなかった。

ばぁちゃんに 状況を訪ねる。
「○▼×◆〜☆・・・・・」
ばぁちゃんの言っている言葉が わからなかった。
「へっ?」思わず言ってしまった。
「!?・・・・・」
とたんにばぁちゃんは 恥かしそうに下を向いて ぶつぶつつぶやきはじめた。

方言を気にされているようだ。
とても悪いことをしたと思い こんどは一所懸命聞く体制にまわった。

ばぁちゃんもすこし気をとりなおして 私にできるだけわかるように ゆっくり話してくれた。
ゆっくり話してくれても 解りにくいのだが なんとなく意味はわかった。
もともと用件ははっきりしているのだから 言われていることは 想像で半分は解るというものだ。
どうやら店主は 新規登録のバイクの用事で 役場と保険やに行っているらしい。
帰るまで2〜3時間かかるらしい。

私のような傍若無人の大阪人は 解らなくなるとすぐに「へっ?」と聞き返してしまうが 時としてシャイな東北人を傷つけてしまうことがある。
人のよさそうなばぁちゃんを傷つけてしまった時は なんか自分も悪いことをしたと 自己嫌悪に陥ってしまう。
ばぁちゃん ごめんね。

七戸の道の駅は 郷土伝承館が併設していた。
郷土料理 「けいらん」を食する。
出てくるまでは どんなものか解らず 期待したが
ハレ日のお祝い料理 量もほんのわずかで 食事というわけにはいかなかった。

伝承料理「けいらん」

 

青森に着いたのは昼時。
駅前の市場(たぶん通称)を覗く。
魚や果物があふれかえっている。新鮮で美味しくて いつ来ても驚いてしまう。
鮭やカニもあり どれも北海道より3割からものによっては 5割くらい安いものもある。

市場内の食堂へ立ち寄る。
時間は昼前。

刺身定食を頼んでみたら その味に大満足してしまった。
天然のカンパチに 本マグロ(生)の中落ち 帆立貝(陸奥湾産)
魚は いやな生臭さがなく ほんのり甘くてすっきりしたうまさがあった。
北海道で頼むと 同じものが目をむくほど高くつく。
観光地価格だからだ。

今年は良いものが見られた。三内丸山遺跡。三度目のトライで やっとここに来ることが出来た。去年は早朝来た為 開館していなくて しかも雨が降ってきたので 入るのを諦めた。
その前は ここの場所が判らずに道に迷ってしまった。

ここは青森でも有名な大きな墓場の近くにあった。場所は三内霊園という。
最初の年 墓場をうろうろし 挙句に道に迷ったのだが ここはかなり前から 墓場だったようだ。
「丸山」という地名は 墓のことを指す。昔は土葬で人を埋めた跡は 土を高く盛って 墓場が目立つようにした。これを土まんじゅうとも呼ぶ。
古代の埋葬方法なのだが この地名のあるところは 古墳があったり古い墓場だったりすることが多い。
京都の円山公園 長崎の色里丸山などは この例として挙げられる。
神戸の丸山もあるいはそうかもしれない。

そして丸山という地名は 色里とも関係がある。
丸山(墓場 古墳)の墓守をしていたもの(女性)が 食っていくため
墓参りの男性を誘ったのが 色里の自然発生的なものだと ものの本で読んだことがある。

京都の円山も 長崎の丸山も 色里のそばにある。
興味深い話だ。



この場所で古代の集落ごと出土して 話題になったのは何年前のことか。
復元された住居や 祭祀場 倉庫 ゴミ捨て場 そして墓場 そう この遺跡の北側のはずれには 子供のものと思われる 墓場が存在している。

そのずっと先は くだんの霊園。
あの墓場は 何千年も前から 墓場だったのかもしれない。

我々の習った歴史は 日本では畿内中心の大和朝廷しか 文化や国が存在しないがごとく 教科書で習ったが 大和と全く関係ない文化が この場所で縄文人によって営まれていたのは 何か安心を憶える。

紙の上の資料でしか知らない歴史のほかにも 沢山の歴史があるという あたりまえのことを学んだ。ここの縄文人は 北海道の縄文人や 東北南部の人とも交易していたらしい。


住居のなかには 北米のネイティブアメリカンが住居に使っている ティピーの形にそっくりな家もあった。彼らも我々も縄文人も モンゴロイド。同じ家に住んでいたのだ。
そういえば 北海道のアイヌの住居 チセに似ている家もあった。


三内丸山遺跡の本館は こんなに近代的な建物で 中は冷房が効いていて とても涼しい。
講義室や子供たちの学習施設 展示室 出土品修復を間近で見せる観覧室など 円形の建物内いっぱいに広がっている。

最近のアミューズメント施設は 博物館と呼ぶには似つかわしくないくらい 遊びの要素を演出していて 何度も来たくなるほどよく出来ている。

三内丸山遺跡を後にして 弘前に向かいどんどん南下する 日本海側から南下するつもりだったが いつの間にか山間部まで入り込んでいた。夕方になりいつの間にか 秋田県境まで来ていた。奥州三関のひとつ 碇ケ関までたどり着いた。

関の手前は夜半から 雨が降ったりやんだりしていたが 運よく私が行った時は 雨が降った後だった。

道の駅碇ケ関に着いたのは 夕方7時くらいになっていた。
ここで夕食を食べ 売店や食堂が閉まれば 屋根のある軒下で マットをひき寝袋で寝るつもりだ。

今日は疲れたので 早く売店が終了して欲しい。

道の駅の食堂では これをいただいた。
自然薯入りのざる蕎麦と 麦とろご飯のセット
湯葉と山菜の白和えもついて ヘルシーな夕食になった。
今日も 一日いち麺が達成できた。

渓流が近いのか トビケラやカゲロウの成虫が 明かりにいっぱい集まっていた。
特に道の駅のカンバンを照らす スポットライトは強力な光度を放っていて そこには驚くほどの虫が集まり そのお陰で 他の場所には 羽虫は来なかった。
営業終了した売店の前に 仮設テントが置いてあり
そこは小さな木のテーブルと 長椅子が2本設置してあった。
その長椅子の上に寝ることにして 寝袋ごと横になった。バイクは軒下に入れて 夜中に雨が降っても濡れない万全の体制で眠ることが出来た。

夜中 羽虫が近くを飛んで すこしうるさかったが 刺す虫ではないので 安心して眠れた。
私は虫は 怖くもないし嫌いでもない。渓流釣りをしていた時期もあり 虫には馴染みが深い。むしろ道の駅で車で泊まっている 家族連れの方が よほどうるさい。

珍しそうに覗き込みに来るので 眠りを妨げられることが多くて 閉口した。
こら 捧でつつくな!ガキ供。
もっとも こんなところで厚かましく寝ている私も悪いのだが・・・・・
明日は 秋田県突入。美人に会うのがとても楽しみ。。


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