幕末のエネルギーのかけら − 長州

薩長土肥 維新の立役者の藩です。ツーリングでは 四つの藩とそれに繋がる雄藩の宇和島藩 そして情報の交差点 長崎を訪ねました。

はじめに訪ねたのは 長州(山口県)

長州藩は 幕府徳川家にとって 三百年間仮想敵国でした。
関が原の戦いで 本来は潰しておくべきだったこの藩が 幕府によって 国土を四分の一に削られながらも生き残り やがて倒幕に向かうことになることは 歴史の必然だったのかもしれません。

この藩は 他の藩が三百年の太平の永い眠りにあるときにも 常に国防を考えていました。
実際に長州に行ってみると解ったのですが この国は長い海岸線を持ち しかも朝鮮や中国に近く 海外に触れる機会の多い藩でした。

黒船来航以前に 長州藩に近い対馬藩が ロシアに一時占領された事実を知らない人が多いのですが このとき長州藩は 外敵に対して 非常な恐怖体験をしました。

黒船来航後の幕府と外国との通商条約締結後は 下関海峡を外国船が通ることにもなり
当時の世相 尊皇攘夷主義の雄藩である長州藩は 外国の脅威を肌で感じるようになります。

長州藩の思想家 吉田松陰は 沢山の維新の志士と戦士を育てましたが 彼の思想が この勤皇の志士の行動原理になり 彼の育てた塾生は 最初から倒幕思想の要素を色濃くもっていました。 

尊皇攘夷について 私なりの解釈を書いてみます。
尊皇攘夷とは 本来日本の主である天皇を崇め奉り まもり 外国の脅威をはねつける強い国体を作る運動・・・・と理解しています。

いままで幕府が日本の中心であると思っていたであろう 大多数の人には 新鮮な考えであり 天皇の存在さえ知らなかった人達にとっては 世の中がひっくり返るような思想であり 幕府軽視にも繋がる危険なものだったのですが(徳川家にとってですが) 出所は幕府御三家の水戸家や会津松平家の信奉している 朱子学 国学や垂迦神道だったのは皮肉なことです。


尊皇攘夷の思想から見ると 朝廷をさしおいて 幕府が威張ることは間違いで このまま幕府に日本の国を任していると やがてはこの国は 外国に攻められ荒らされ やがてはとられてしまうと多くの不満分子は考えました。

隣国の中国がアヘン戦争によって 外国に侵略されようとしている情報を聞くにつけ これを知ったものにとっては危機感は募るばかりです。

吉田松陰は外国船に密航しようとして捕まり 最初は士分を剥奪され 自宅軟禁状態による罰をうけ その期間沢山の若者の教育をし やがて今度は 当時の幕府老中真鍋詮勝の暗殺計画を企て 最後は安政の大獄により江戸で罪人として斬首されます。

尊皇攘夷の大いなる熱狂は ただしくは革命のエネルギーになりましたが 多くはテロリストの行動原理にもなり 間違った解釈から無差別な殺戮を生み 幕府方 反幕府方 双方の尊い命を奪いことになりました。

いま萩の町を眺めていると そこは何の変哲もない 平和な田舎の城下町でした。
明治維新の立役者の面影は 史跡でしか感じられず 町は取り立てて裕福そうにも感じられず 政治家の利益誘導もあまり感じられません。

山口県は総理大臣をどこよりも多く輩出している県です。
それはやはり百年続いた 長州閥が今も続いている結果だと思うのですが
意に反して 利益誘導が目立たないのは(新潟県のように)
長州人の性格なのかもしれません


帰ってから 面白いエピソードを読みました。
維新の志士の中で 運良く生き残り 明治政府では有名な政治家になった人に

初代総理大臣 伊藤博文と山形有朋がいますが この二人はどちらも下級武士出身から
本人の努力と運 そして吉田松陰のおかげで 政府の頂点に上り詰めた人達ですが 

偉くなってからは 故郷長州には帰りたがらなかったそうです。

東京にいれば 日本で一番偉い人だったのですが 故郷長州ヘ帰れば 昔を知る人達が多くいて 故郷ではただの身分の低い小者あつかいされるのが たまらなく嫌だったようです。

当の長州の地は いまも武士の気風が残り 生垣に植えた兵糧食の夏みかんを大事にし
松下村塾を大切に守り伝えています。

百年経った現在は さすがに尊皇攘夷の気風は残っていません。

戻る